西田千太郎は教員免許や大学はどこ?学歴詐称は史実とは違う?

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NHK朝ドラ・連続テレビ小説・「ばけばけ」でヘブンのサポートとして重要な役割を果たしてきた吉沢亮さんが演じる錦織友一(にしこおりゆういち)が教員免許がなく帝大を卒業してなかったという学歴詐称が判明しましたがモデルの西田千太郎も教員免許がなく大学は学歴詐称していた?

今回は西田千太郎さんについての史実をご紹介しつつ、教員免許はないのか?大学はどこ?で学歴詐称をしているのか?ご紹介していきます。

目次

朝ドラ「ばけばけ」で錦織友一に教員免許がない学歴詐称が判明し話題に!

錦織友一とは?

吉沢亮さん演じる錦織友一は、物語の序盤でヒロイン・トキ(高石あかり)と東京でまず出会いを果たします。

当時の夫・銀二郎(寛一郎)を追って上京したトキは、彼が暮らす下宿先を訪ねた際、そこに居合わせたのが錦織でした。

当時の錦織は、地元・松江でも一目置かれる才気あふれる人物で、教職への道を志して教員試験に向けて勉強に励んでいる最中でした。

しかし銀二郎とトキは離縁することになり、東京を去った後は、錦織友一に会っていませんでした。

ところが、その後、錦織は松江中学で英語教師を務めることになりヘブンのお世話係を任されたことから、トキと再会する展開でした。

錦織友一の“秘密”とは?教員免許がないことが判明

NHK連続テレビ小説『ばけばけ』の第82話(2026年1月27日放送)で、 吉沢亮さん演じる松江の英語教師・錦織友一が抱えていた“過去の秘密”がついに明かされ大きな話題に。

錦織友一は、知事(佐野史郎)から中学校の校長先生にならないか?と言う打診をされていたのですが、錦織の代わりの人物として依頼したのが庄田多吉(濱正悟)。

庄田に代わりを断られた時の会話で驚くべき事実が判明したのでした。

具体的には、以下の点がわかりました。

教員免許を取得していなかった
→ 錦織は“英語の教師”として振る舞っていたものの、実は正式な教員免許を持っていませんでした。

帝国大学(帝大)にも合格していなかった
→ 大学進学にも失敗しており、学歴の面でも本人が語っていた経歴とは異なる事実が明らかに。

トキが東京で会った時、教員免許に向けて勉強に励んでいた錦織でしたが、この時、試験に落ちてしまったことがわかります。

つまり、見た目は“優秀な教育者”でも、裏側では新たに登場した同級生の庄田多吉(濱正悟)が持つ学歴や免許とは異なる“足りない部分”を抱えていたのです。

 秘密が明かされる前のイメージとのギャップ

これまで錦織は“松江随一の秀才”“信頼できる教師”として描かれてきましたが、 実は過去に教員試験で不合格になった経験があったことが初めて語られました。

その受験では、教員免許はもちろん、大学(帝大)合格も叶わず、周囲からは「大盤石」と言われるほどのポテンシャルがあるのに結果を出せなかった苦い過去を持っていたことが明らかになります。

この“表向きの成功”と“隠れた挫折”のコントラストが、視聴者の共感と驚きを呼んでいます。

SNSでも大反響!驚きの学歴詐称に驚きの声

錦織の秘密が発覚した第82話の放送後、SNSでは次のような声が多く見られました:

📌 「こんな重い事実があったなんて…」
📌 「吉沢亮さんの演技力がすごい!」
📌 「表の顔と裏の過去、このギャップが物語に深みを出してる」

“教員免許”や“ミートパイ”(劇中で登場したワードまでトレンド入り)など、放送後の話題が連日SNSを賑わせています。

物語内では、庄田多吉(濱正悟)が教員試験に合格し教員免許も帝大入学もしていたのに対し、錦織は同じ試験で不合格だった過去が語られます。

この違いは、ふたりの関係性にも影響を与える可能性があるため、今後の展開でも注目ポイントとして挙げられています。

ちなみに庄田多吉のモデルについてや今後のネタバレは以下の記事でご紹介しています。

庄田多吉は代役!「さわ」とはどうなる?ネタバレは結婚する?

視聴者の間では、「錦織と庄田は似た者同士でありながら運命が違った」という感想や、「錦織の苦労が物語をより奥深くしている」といった声が多数上がっています。

ちなみに今後、錦織の校長就任はどうなるのか?今後のネタバレは以下の記事でご紹介しています。

ばけばけ錦織の校長就任はどうなる?史実を西田千太郎の生涯から

西田千太郎は教員免許や大学はどこ?

西田千太郎が錦織友一のモデル!頭脳明晰で清廉潔白な人柄

錦織友一のモデルは実在の西田千太郎だと言われています。そこで気になるのが、教員免許がなく、学歴詐称していたのは、実話なのか?ということだと思います。

以降では、西田千太郎について史実をご紹介しつつまとめていきます。

西田千太郎さんは、1862年に現在の島根県松江市雑賀町で誕生しました。父は松江藩に仕えていた西田半兵衛で、千太郎さんはその長男として生まれます。

小泉八雲(1850年生)よりも12歳年下にあたり、また、トキのモデルである小泉セツ(1868年生)よりは6歳年上となります。こうして見ると、3人は世代的にはややずれつつも、互いに重なる時間を共有していたことがわかります。

学生時代の千太郎は、常に成績上位に位置し、周囲からは「大盤石(だいばんじゃく)」という異名で呼ばれていたほど。これは、非常に大きくて動かない岩を意味し、動じず、確固たる人物像を象徴する言葉として知られています。

その落ち着きと明晰な頭脳、さらには誠実な人柄から、地域や学校でも高く評価されていたようです。人々の口から悪い噂が出ることがなかったと言われるほど、清廉潔白な人物だったと伝えられています。

なお、ドラマで錦織友一を演じる吉沢亮さんは、役作りの一環として西田千太郎が暮らしていた旧居を訪問。特に印象的だったのは、暗く狭い2階の部屋で、一心不乱に英語を学んでいたという逸話。壁には英字新聞を貼っていた痕跡も残っており、勉学への情熱や努力の跡が今も息づいていることに感銘を受けたと語っています。

教員免許がない?

そして肝心の教員免許問題です。

1880年、西田千太郎さんは松江中学校を中退し、その後すぐに教育現場で授業手伝いとして働き始めます。

学業成績が非常に優れていたことから、学ぶ側から教える立場へと早々に移行したものと考えられます。

1884年には安食クラさんと結婚し、夫婦の間には1人の娘と2人の息子が誕生しました。

1886年には、文部省による中等教員検定試験に合格。心理学、倫理学、経済学、教育学という4分野において教員免許を取得し、教育者としての道を本格的に歩み始めます。

教員免許は持っていましたので、ばけばけとは違いますね。英語教師」と言う印象が強い西田さんですが、英語については教員の免状を持っていませんでした。

中学校では英語、歴史、地文、生理、植物、経済など、ほぼ全教科を教えていたそうです。

教員免許は持っていたものの、英語の免許は持っていなかった点をドラマでこのようにオリジナル設定にしたのかな?と思います。

大学はどこ?

ちなみに東京の帝大を卒業していたと嘘をついていたと言う、学歴詐称については、おそらくドラマのオリジナルだと思います。

西田千太郎さんは、東京で過ごしたこともあったそうですが、基本的にはずっと松江にいて、教師になりました。

そして大学にはいっていません。

大学にいかずとも、教師として優秀だったことがわかりますね。帝大卒だと言う嘘をつく必要はなく、そんな情報はありませんでした。

しかし大学に行っていなかったことが原因で、校長先生になれなかったという話もあります。

小泉八雲との出会い

その後、兵庫県の姫路中学校や香川県の済々学館での教員経験を積み、1888年には島根県尋常中学校の教頭に就任。学校運営に尽力し、教授法の刷新や財政面の効率化など、教育体制の見直しに取り組んでいきました。

1890年には、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が日本に到着。当時、文部省普通学務局長の服部一三の推薦を受け、島根県尋常中学校(現・松江北高校)および師範学校(現・島根大学)にて英語を教える職を得ます。

日本に知人もなく、異国の地で孤独を抱えていた八雲が心を許せる人物と出会ったのが、まさに当時教頭を務めていた西田千太郎でした。2人はすぐに親交を深め、八雲が松江の文化に触れていく上で、西田は案内人としても支えとなります。

八雲は西田についてこう記しています:

「聡明で、親切で、物事に通じている。少しの狡さもなく、私の欠点もはっきり指摘してくれる。本物の男の心を持ち、媚びたり飾ったりしない、誠実な人物だ」

こうした言葉からも、八雲にとって西田がどれほど信頼できる存在であったかがうかがえます。

西田千太郎の最期とは?

小泉八雲との別れ

小泉八雲が松江で迎えた最初の冬、それは彼にとって過酷なものとなりました。慣れない日本の寒さに体調を崩し、重い気管支炎を患ってしまいます。

その看病のため、八雲のもとに住み込みで働くことになったのが、後に妻となるセツでした。

セツは、生みの親と育ての親の双方の世話を抱えていたことから、生活の糧としてこの職を選んだといわれています。

出会って間もないふたりでしたが、互いに惹かれ合い、やがて自然な流れで夫婦となります。

長年孤独な日々を過ごしてきた八雲にとって、セツとの生活は家族の温もりを初めて実感する日々となり、その愛情は彼の心身に大きな変化をもたらしました。

そして、体調の問題と生活の安定を考慮し、より気候が穏やかで給与も良かった熊本への異動を決意。こうして1891年11月、夫妻は松江を後にし、新たな生活へと旅立ちます。

「ばけばけ」でも熊本に移住することがわかっていて史実通りに展開するようですね。

ちょうどその頃、松江ではコレラが流行しており、生徒の中にも犠牲者が出る深刻な状況でした。配慮の末、八雲は教え子たちへの別れの挨拶を控える決断をします。

ところが、出発当日の早朝、八雲の家の前には200人近い生徒たちが自発的に集まり、彼を港まで見送りたいと申し出ます。

八雲はこの別れの場面に深く心を動かされ、後にこう綴っています:

「もし他のどこかの国で同じ時間を過ごしていたら、これほど豊かで温かな人情に触れることができただろうか」

この出来事は、八雲がいかに深く松江の人々と結びついていたか、そして教え子たちにどれだけ愛されていたかを物語っています。

なお、八雲と西田千太郎が共に過ごした時間は、わずか1年あまり。しかし、その短い交流が残した足跡は、今も語り継がれています。

36歳で亡くなる

西田千太郎がこの世を去ったのは、小泉八雲との出会いからおよそ6年半が経過した頃のことでした。

長らく結核を患っていた彼は、わずか36歳という若さでその生涯を閉じます。

八雲はその知らせを深く悲しみ、西田の病に対して無念の思いを口にしていたといいます。

「神は公平ではありませんね、私にはどうにも納得できません。
どうして正直な人間にばかり重い病が降りかかるのか…」

そう語ったとも伝えられており、西田の最期がいかに八雲にとって大きな喪失であったかが感じられます。

1894年には、島根県私立教育会から彼の教育における功績が認められ、功績賞を授与されています。翌年には日本弘道会松江支会の会長に選ばれるなど、その実直な人柄と実績が高く評価されていたことがわかります。

たびたび体調がすぐれない時は職を離れることもありましたが、それでも彼は多くの人に慕われ、教育者としての信頼を最後まで失うことはありませんでした。

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